平清盛と日招き伝説
音戸の瀬戸開削工事が完成間近を迎えたある日、今にも沈まんとする夕日に向かって清盛が扇を仰いだところ日が舞い戻り、その日のうちに大工事を完遂することができた…。
平清盛が音戸の瀬戸を開削したといわれる日招き伝説には未だ多くの謎が残されており、そのミステリアスさが人々を魅了し続けています。
ここでは、巷で語られている様々な説の一部をご紹介いたします。
音戸の瀬戸は850年余年の昔、平清盛の手によって開削されたという言い伝えや文献などが残されていながら、当時の朝廷の記録や清盛の年譜には正式に残されておらず、学者の間でも伝承か事実か、その真偽の説がわかれ一つの謎とされている。
開削前対岸の警固屋とは、満潮時1m足らずの潮が通っていたと言われ、干潮時になるとその辺り一帯が砂浜となって人の行き来が可能であったと伝えられている。
開削の準備1146年、29歳で安芸の守となり度々この地に赴き、宮島(厳島神社)の造営や改修を行っている。瀬戸は通じているのに舟を通すことが出来ないため、遙か南方を回らねばならず、貿易、海路の交通、海防などの見地からこの海峡の開削を決意したと言われる。
開削工事1164年10月、まずは地峡の南北に堰を造り,南北を両断したと言われている。機械力のないこの時代、干潮を見てはおこなうなかなかの難工事だった。土は坪井と鰯浜の間の小淵に引き入れられ、これが現在の音戸町引地区となっている。工事は10ヶ月の期間を要してついに完成予定日となった。
1165年7月16日、引き潮を見計らって南北の堰の撤去作業が行われることとなった。この干潮を期して是が非でも撤去せねばならず、清盛の激励で役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、そのとき既に夕日は西に傾き足下も暗くなり始めた。平家一門の名誉と膨大な費用、人夫の苦労もこの一瞬にかけられたといわれ、今や西に沈みかけた赤い太陽に向かって右手の金扇をさっとかざし日輪を招き
「返せ、戻せ」
と叫んだ。清盛の所業を見守る人々は、沈まんとする日輪の舞い戻るように
「それ、陽はあるぞ!」
と、一同奮い立って必死の努力によって、ついにめでたく、音戸の瀬戸は切り開かれた。
※開削には延べ6万人、経費は5貫500匁(約20.6kg)、銀15貫匁(約56.3kg)といわれている。
記
- 古代より交通路線に陸路より安全で便利な瀬戸内海の利用者が多く
- 地方豪族の貢納物や京阪神に販路をもつ者又は隣国唐、宋(支那)、三韓(朝鮮)等より交易を盛んに瀬戸内海を往来した
- 海上交通が盛んになるほど船賃をふっ掛たり積荷を奪ったり貴重な財物を略取する海賊が横行するようになった
- 朝廷でも追捕使を差遣わしたが鎮撫出来ず
- たまりかねた朝廷は平忠盛及清盛に海賊の討伐をじ六年間和戦両用で苦難はあったが平定を見る事が出来た 清盛年十八才
- 瀬戸内海海賊追討の功により清盛は従四位下となる
- 清盛はやがて西国に君臨し宋貿易に力をそそいで巨富を積みこれが平家一門の経済的基盤を作った
- 忠盛も海賊追悼の功により、播磨、伊勢、備前守と盛力をつけ九州の博多と安芸の厳島を根據地に宋の国と貿易を行い大儲けした
- 清盛は久安二年 安芸守となり厳島社殿改修音戸ノ瀬開削を始めた それは博多、厳島、兵庫を貿易交路とした音戸ノ瀬が必要になり工事を進めた
- 忠盛は三十六才没、清盛は三十九才播磨守となり四十七才で厳島神社に平家一門の法華経の書写を奉納する(平家納経) 四十八才権中納言となる
- 音戸ノ瀬戸開削工事竣工 永万元年七月この大工事に要した労力は延六万人経費金五貫五百匁銀十五貫 当時換算二十五万両 四十七才
- 清盛は従一位太政大臣となり年五十才其の後仏門に入る
(音戸ノ瀬戸を中心に)
天皇 | 鳥羽 | 崇徳 | 近衛 | 後白河 | 二条 | 六条 | 高倉 | 安徳 | |||||||||||
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年号 | 元永元年 | 大治四年 | 保延元年 | 久安二年 | 仁平三年 | 保元元年 | 平治元年 | 長寛二年 | 永元元年 正月 |
仝七月 | 仁安元年 | 仁安二年 | 仁安三年 | 承安元年 | 承安三年 | 治承二年 | 仝三年 | 仝四年 | 養和元年 |
西暦 | 一一一八 | 一一二九 | 一一三五 | 一一四六 | 一一五三 | 一一五六 | 一一五九 | 一一六四 | 一一六五 | 一一六六 | 一一六七 | 一一六八 | 一一七一 | 一一七三 | 一一七八 | 一一七九 | 一一八〇 | 一一八一 | |
事項 | ・清盛誕生 | ・父忠盛 瀬戸内海海賊追討 | ・仝後 清盛従四位下となる | ・清盛 安芸守となり厳島神社改修する ・音戸の瀬戸開削計画 |
・父忠盛 没 | ・保元の乱の功績により清盛は播磨守となる | ・平治の乱起る | ・厳島神社に平一門の法華経の写経を奉納 する(平家納経) ・音戸ノ瀬戸開削工事着手 |
・清盛 検非違使別当権中納言より兵部卿兼る | ・音戸ノ瀬戸開削工事竣工 | ・清盛 内大臣となる | ・清盛 従一位太政大臣となる 在任三ヶ月 |
・出家して浄海入道を名乗る ・厳島神社社殿大改築 |
・清盛の娘徳子 高倉天皇の女御となる | ・兵庫経ヶ島工事・着守 | ・徳子皇子(安徳天皇)を産む | ・平重盛 没す | ・安徳天皇即位 大輪田泊を修築する | ・清盛 京都にて没す ・遺骨を神戸福原墓所に埋める |
年令 | 一才 | 十二才 | 十八才 | 二十九才 | 三十六才 | 三十九才 | 四十二才 | 四十七才 | 四十八才 | 四十九才 | 五十才 | 五十一才 | 五十四才 | 五十六才 | 六十一才 | 六十二才 | 六十三才 | 六十四才 |
開さく工事長寛二年十月清盛は自らその指揮をなし平有盛は警固の武士を組役としてその下に五十名乃至七十名の人夫を配しそれぞれ夫役を定め先ず地峡の南門北門に堰を造り南北の瀬を両断した。その長さは二丁幅十問(但し干潮時)であったが満潮時には六十間位になるのでなかなかの難工事となった。
機械力の無い時代であるから手潮を見ては打出す音頭拍子の太鼓の音に合して掛声も勇ましく立働いた。しかし不完全な堰の隙間からともすれば潮が流れ込んだ。
その為に工事はなかなか捗らなかったが清盛は往昔の大土木事業には使はれる人柱は余りに残酷で無益な犠牲であると断固として反対し之に代へて小石蛤具瓦等に一切経を書かせこれを人柱の代りに海底に埋させた。
一字一字一念をこめて刻みつけられたこの石を世に一字一石の経石と言はれ人柱以上に尊いものであった。
此の捨石によりさしもの難工事も着々と進んで行った。土は坪井と鰯浜の間の小渕に引入れられ築地が出来これが現在の引地区となっている。十ヶ月の期間を要してさしもの工事も完了の日となった。永満元年七月十六日引潮を見はからって南門北門の堰に於て最後の仕上工事に人夫総動員で堰取外しの作業が行はれることになった。この干潮を期して是が非でも取除かねばならず清盛の激励役人人夫の血のにじむような努力が続けられたが其の時夕日は西に傾き長い夏の日も早や足元も暗くなり始めた平家一門の名誉と多大の費用と人夫の苦労も此の一瞬にかけられる。今一時の日があればと、流石権勢を誇る清盛も遂に立上がり、急ぎ日向山(現警固屋町休山の中腹)の岩頭につゝ立ち今や西に沈まんとする赤い太陽に向い、右手の金扇をさっとかざし日輪を差し招き「返せ、戻せ、」と呼んだ。
清盛の所業を見守る人々は沈まんとする日輪の舞い戻る様に「それ陽はあるぞ〃」と一同競い立って晩?(“月”に”圣”)の折れ腰骨の砕けるまでと必死の努力により遂に目出度く、音戸瀬戸開さくは成就した。時に清盛四十七歳の時であると伝へられているが、これは当時の清盛の勢力の大なることを伝へられたもので夕暮になり完成寸前人夫は疲れ、意気も落ちた最後の一瞬に大号命を以って下知し、その勢と意気により完成したことを言うのである。其時清盛が立った岩を「日招岩」と云い畳二枚位の岩で足跡と杖の跡が深く残っていると伝へられているが砲台設置の為取除かれた。
平安時代末期、平清盛が現れると、音戸の瀬戸の様相は一変します。清盛は日宋貿易を盛んにし、瀬戸内海の交通と厳島神社への航路の便を図るために、音戸の瀬戸を開削しました。一一六四年に着工し、延べ一六万人にも及ぶ人夫と巨額の富を費やして、一一六五年の七月にようやくその完成を見たといいます。もともと瀬戸という地名は、潮が滝のように音を立てて流れていたので、「迫門」と書いていたようです。急流が迫る所という意味ですが、瀬戸の潮の流れの速さを物語っているといえましょう。
歴史のコーナーでは一応の定説として、「平清盛が日宋貿易を盛んにし、瀬戸内海の交通と厳島神社への航路の便を図るために、音戸の瀬戸を開削した」と述べましたが、文献や資料には、はっきりと音戸の瀬戸を開削した理由が正式に残されていないというのが事実です。清盛の熱烈な厳島信仰の現れだ多という説もあるのです。とにかく、この音戸の瀬戸開削は、確かに清盛の事業であったと、多くがしるしていることは事実です。-清盛は警固の武士を組役にし、人夫を配し、工事にとりかかりました。干潮のころあいを計りながら、それでも時折潮が流れ込んでしまう、といった難工事でした。当時の風習ではこうした工事を無事に進めるために人柱を使うのが普通でしたが、清盛はあまりに残酷だとして、小石や蛤などに一切経を書かせ、それを人柱の代わりに使ったといいます-。平家一門が壇ノ浦の戦いに破れたため、敗者の美談を含んだ記録の一切が闇に葬られたのでしょうか。どちらにしても、「伝説かもしれないが、事実かもしれない」といった謎のままの方が、夢があり、ロマンではあります。
その昔、音戸の瀬戸は干潮時になるとその辺り一帯が砂浜となり、人の往来が可能であったといわれています。これが事実ならば、当時の瀬戸内海を航行する船は倉橋の南端を迂回し、距離にして40kmも遠回りしていたことになります。そして、この不便さを打開したのが、当時安芸守だった平清盛だったと伝えられています。清盛は厳島神社への参拝や日宋貿易の活性化などを目的とした海上交通の便宜、さらには海上防備の見地から音戸の瀬戸の開削を決意したといわれ、このあたり一帯には清盛と瀬戸開削にまつわる伝説が数々残されています。
平清盛は音戸の瀬戸を一日で開削した!?
有名な言い伝えがある。清盛が恋をしていた厳島神社の女神が「音戸の瀬戸を1日で開削したなら、清盛に従う」と告げたということで、清盛は大いに張り切った。清盛は大工事を決行し、完成まであと一歩と迫ったが、陽は西に沈みかけている。その時、清盛が右手の金扇をさっとかざし、陽に向かって「返せ、戻せ」と叫んだ。すると信じられないことに陽が舞い戻り、工事は1日のうちに無事完成したという。