地名

 

地名の由来と故事

※「警固屋の歴史」より引用

警固屋地区は平清盛による音戸の瀬戸開削にまつわる地名起源の伝承が数多くあることで知られている。

平清盛が音戸の瀬戸を開削したさい、警固の武士がこの地に住み開削工事を監視したことによるのが、警固屋の地名のおこりであるとされている。 その他にも以下の四つの説がある。

 

(1) 音戸の瀬戸開削工事の労務にあたる土工者が住み、その飯場と米、麦、豆類、乾物等を保管する食小 屋または食籠屋(饗小屋、食廠)が建てられていたという説。

 

(2)清盛が瀬戸内海の航路を掌握するため各地に置いた監視施設を警固屋とし、その監視施設があったと いう説。 (注) 警固屋の語義は、平安後期から鎌倉時代にかけて、見張り小屋を意味する言葉として広く使われ ている(呉の歴史)

 

(3) 音戸の瀬戸開削工事のあと海峡警固と航行の安全を保障するみかえりに、警固料を徴収する警固衆が いたという説。

 

(4)天平4年(732年)の対新羅(韓国)警戒のため、周防と共に安芸も警固所が設けられ、警固屋の地名 があったという説。

(1)音戸の瀬戸開削工事に従事した人達に鍋釜を据えて食料を炊き出したということから鍋の地名がつい たとされている。

 

(2)昔、海上を航行する者が音戸の瀬戸に近づく最初の関門が、「ナベ」を伏せたような形をした「鍋山」の岬で岩礁の多い難所であった。この難所を通過するため鍋山を航路標識として鍋の地名がつけら れたという説もある。

音戸の瀬戸開削の成就を喜び人々が舞ったことによるのが、舞々尻の地名の起りであるとされている。 その他にも以下の三つの説がある。

 

(1)音戸の瀬戸開削中は食小屋にもナベにも働き盛りの青壮年が多数おり、娘をもつ家庭は婿択びし、結 婚の祝言をあげそして子供がうまれる喜びが重なりあったという説。

 

(2)平山(舞々尻川の源の谷)に舞々が原という場所があり、その山下にあるので尻という名がついたと いう説。

 

(3)カタツムリ(マイマイ)の形をした地形を航海者が標識にしてつけたという説。

音戸の瀬戸開削のさい警固の武士が武術を練るため的を射た場所で、弓矢の名手が的を射貫いたことから的場の地名がついたとされている。またこの地区に前側、後側、の地名が残っている。これは音戸側から見ての前後で名づけられているが、前講、背戸講という講(金銭の貯蓄、融通のための組合)の呼称とも言われている。

音戸の瀬戸開削工事のさい、平清盛が本陣を置いたと言われる河内山の麓で、警固の武士の屋敷や工事に従事した労務者らの宿舎が多く繁華な街であったことから、河内千軒と言われていた。 〈故事〉音戸の瀬戸西岸には潮待ち、風待ちのためにいくつも泊が点在し、停泊した船の人びとが宿泊・水や食料の補給、交易あるいは娯楽のために、音戸側と警固屋側との間を渡船で往来したのではなかろうか。河内千軒という伝説的地名は、かつてにぎわった泊の一つではないだろうかの説もあるが、何らかの天変地異の地滑りで海に沈み、今も海の中に屋敷跡や神社の鳥居らしい石の柱、石段があると言われている。

 

幕末になって、土砂崩れで荒れ野と変わり果てたあたりを開墾中、この土地の旧家大下忠平さんが土中から種々の出士品と共に古い壺を掘り出した。何か由緒もあろうかと海峡の潮でそれをあらった、ところが見る見るうちに音戸の瀬戸の潮流が真っ赤になった、「朱壺ぢやった、やれ惜しや」と地団駄(くやしくて足を強くふみならす)踏んだがあとの祭り、中には高価な朱がいっぱいはいっていた。

 

誰が埋めたか、清盛の音戸開削にゆかりがあるのか、またどんな金銀財宝が眠っているかも知れず今でも昔語りの話題になっている。

 

その壺は、今では入船山記念館に大下弥四郎氏より寄贈され、呉市の考古資料として保管されている。それにはこんな由来が書いてある。「文化年間(1804〜1817)大下忠平氏が警固屋町字名河内地区を開墾中、地下から石碑、剣、土器等が多数掘り出され千年前の警固屋文化を証するものとしていたが、 今はこの壺だけが残っている。鑑定の結果、(平安朝)村上天皇時代〔天慶9年(946)〜康保4年(967)まで〕の作であるこの董の中に朱があることを知らず海水で洗ったところ湖の流れにより音戸の瀬戸まで赤く染まったという伝説の朱壺」とある。(中邨末吉著音戸開削の謎) (注)ほぼ同型の壺が大下隆夫氏からも入船山記念館に寄贈されている。 また朱壷のレプリカを警固屋公民館に陶芸教室の人達で作り展示している。

鳥の邑は日向山の麓にあり、平清盛が音戸の瀬戸を掘るとき、この山にて金鶏が鳴いた、清盛はこれを聞いて「中国の鳳舜と儀文王も金鶏が鳴き天下をとった。我もこの金鶏来りて刻(時間) を告げてくれた、これは事業成就の瑞兆なり」と喜び、ねぐらを作り餌を与え、かい守ることを後生に伝えるため鳥の邑と名づけられた。このことが鳥ヶ平の起源といわれている。旧誌には「鳥の平」と記されている。

蕪崎(かぶらさき・現在は冠崎と表記)の地名は、野菜のカブラの形をした地形を航海者が標識につけた名といわれている。また、冠が岬に流れついたので、名づけられた説もある。

(1)宇佐神社の裏手にあたる「寺山」に「落人」といろ地名がある。あれほど権勢を騙った平家の一門も遂に西海の藻屑と消え果て、今は清盛のなしとげた音戸の瀬戸開削の遺業を偲びながらこの「落人」の地に侘びしい敗者の暮しをつづけ、海辺で魚貝を漁りそれを食していたと思われる。今でも土地を堀れば貝殻が現れることから「貝殻山」とも言っている。

 

(2)「芋迫」は落人たちが芋を作り食糧にしていたという地名である。そこには小さな池もあり土中より炊事に使った器や金属製の仏像が出土したと言われている。また馬場の跡とも想定されている。現在、黄幡社の所在する一帯と思われる。

 

(3)「落人」と「芋迫」に続いて「ひよどり越」という地名がある。今の警固屋一丁目に残る旧道(県道拡張工事によりほとんど削られた)あたりで源平合戦で有名な鵯越を偲んでこの名をつけたものと思われる。またそれにそっている東南の谷一帯を「市郎が谷」なまって「一の谷」と呼んでいた。

 

(4)中世荘園の「名」に由来するであろうとされる地名が、舞々尻 の「有清」「吉持」である。舞々尻と鍋の境にある「尾崎の畝」には五輪塔がある。中世に海賊衆(海の警固武士)として活躍した警固屋氏のもとで、活動した海民たちの墳墓ではないかと思われている。

 

(5)警固屋の中心地を「本郷」と言い、今も鍋、警固屋、見晴の中心 ということで呉市の警固屋支所が置かれている地域である。本郷に は社倉もあり、ここらを「鍋の浦」とも称していた。その浜に 「小網代」という名の網代もあった。三本松に平家の屋敷跡や五輪塔 の内四輪が一基だけ今も畠の中に残っている。清盛塚の向かい合わせのでっぱなは「鍋の岬」 と呼ばれ、潮流は げしく瀬戸一番の難所と恐れられていたところである。