音戸の伝説・民話

 

伝説と民話

※「伝説と民話 ふる里音戸(総合編)」より引用

伝説

 

 今から八百年ほど前に、平清盛公たいらのきよもりこうが沢山の人夫にんぷを使って音戸の瀬戸を切り開いたとき、工事の安全を祈って人柱ひとばしらの代わりにと、小さな石に「一切経いっさいきょう」を刻み付け、海中へ沈めたと伝えられています。

 その海の辺りに周囲四九.一四メートル、高さ五.四六メートルの塚が造られました。その中央に高さ一.九八メートルの五輪のほうきょうの石の塔が建てられ、これを人々は「清盛塚きよもりづか」と呼んでいます。また五輪のほうきょういん石塔せきとうに、おおいかぶさるように老松ろうしょうがおい茂っていました。これが清盛松きよもりまつといわれ、清盛塚を重々しく美しくひき立たせていました。しかし時は流れ、老松は枯れ、現在はその三代目の松が根をおろしています。清盛塚は音戸の瀬戸だけでなく、呉の入船山記念館いりふねやまきねんかんや神戸の経ケ島ふみがしまにも建てられています。

 西に沈みかけた太陽を招き返して、一日で音戸の瀬戸を切り開いたといわれる平清盛公たいらのきよもりこう偉業いぎょうをたたえ、後世こうせいに伝えようとして行われたのが、清盛祭きよもりまつり大名行列だいみょうぎょうれつです。

 この祭りのようすを詳しく調べてみると、清盛公は一日で瀬戸を切り開くため西日をおうぎで招き返したということで、「やまい」により、一一八一年(養和元年ようわがんねん)二月四日に六十四歳でなくなったそうです。それでいつとはなしに念仏ねんぶつとなえながら、清盛塚きよもりづかの近くの浜辺で念仏踊ねんぶつおどりが始まったということです。それからというものは、旧暦きゅうれきの三月三日の行事として行列が行われ、後には、百万石ひゃくまんごくの格式のある大名行列だいみょうぎょうれつとなったのだそうです。この大名行列だいみょうぎょうれつは、清盛塚きよもりづかを中心に町から町へ、浜から浜へと老若男女ろうにゃくなんにょ数百人の行列となってくねり歩くようになり、その長さは実に数百メートルになったようです。この行事は町の無形文化財むけいぶんかざい(一九七九年)に指定されています。

 音戸町の主峰古観音山しゅほうふるかんのんさんには大きな岩があり、その中には子どもが通れるくらいの穴があり珍しがられています。その山のふもとに梵潮寺ぼんちょうじがあり、春は桜の名所です。

 奈良時代のえらいお坊さん「行基ぎょうき」は、全国を修行して回られたとき、古観音山ふるかんのんさんに立ち寄られ、「木尊観音像もくそんかんのんぞう」を刻まれ、お祭りをされたそうです。その後に、古観音山が大きな山火事にあい、行基菩薩ぎょうきぼさつなんのがれるため山頂からふもとの梵潮寺ぼんちょうじへ向って飛び降りたのだそうです。梵潮寺ぼんちょうじには、この行基菩薩ぎょうきぼさつさくといわれる「十一面観音じゅういちめんかんのん」がまつられています。この十一面観音じゅういちめんかんのんは、三十三年に一度開帳かいちょうされ、信者に観音像かんのんぞうを拝んでもらうお祭りがにぎやかにもよおされます。信者たちは十一面観音じゅういちめんかんのんをおまつりしていることから、梵潮寺ぼんちょうじのことをぞくに「観音かんのんさん」と呼び親しんでいます。

 音戸の瀬戸近くの村人たちは、清盛公が瀬戸を切り開いた大事業を仰ぎ、その功徳を慕い、日毎夕陽に映えた「日招岩」を眺めては、しばし哀愁にひたっていました。

 その頃、毎日たそがれ時になると「日招岩」の辺りから、数羽の白鷺が飛んで来ては、轟々と渦巻く瀬戸の潮に向かって哀れな鳴声を流していたので、村人たちは思えば思うほどいたましく哀傷の念に打たれたのでした。

 観音寺の住職がこの様子を見て、村人に「目連が母を追慕した例にしたがって、なにか供養するべきである。」と諭しました。そこで村人たちは、瀬戸堀切りを成し遂げた旧暦七月十六日に踊り場に集まり、清盛公が瀬戸を掘った時、人夫を励ますために打ち出した音頭拍子の節に合わせ、念仏を唱えながら囃して月明かりの夜の明けるまで踊りぬいたので、これが「念仏踊」といわれています。

 昔、田原小学校の沖合いに大小二つの岩が重なり合うように浮かんでいました。子どもたちは競って、その岩を目指して泳ぎついたものでした。それから道路ができ、埋め立てが始まり、その石は今の小学校の角地になりました。武士の時代には上納米(お上に年貢として納める米)を帆前船に積み込むための石として利用されていました。村人は米俵を積み込むための石だから「俵石」と呼んでいました。田原区の地名はこうしてつけられたといわれます

 また、一説には、代々庄屋を務めていた天満屋の所有する領地の原山の米が、この地区の上納米の大半を占めていたので、他のある原が田原の地名にもなったともいわれています。

 田原は町内一の水田を保有しています。

 早瀬砲台の隣の山頂にある毘沙門台には、毘沙門天像を祀っているお堂があります。

 毘沙門天は、七福神の中で唯一の武装者で、インドの神であります。仏教以前から存在した神で、方角として北方を守る神とされ、日本では九世紀末、平安京が造営されたとき、王城守護の神として羅城門上に安置されました。また、都の北の鞍馬寺にも奉安されました。もともと財宝富貴を守る神でもあったらしいです。

 この像は、約六百年程前の南北朝時代の作と伝えられています。

 当時は、像が持っていた「ヤリ」は、金で作られていたといわれていましたが、残念なことに、何者かに盗まれてなくなっています。

そのお堂は六十年に一度、開扉が行われ、その時には、遠く九州や四国方面からの参拝客があると言われています。

昔、開帳時には、人出の整理に広島藩から役人が派遣されていたとも伝えられ、なかなかの繁昌ぶりを示していたようであります。

 今でも春の節句には、風光明媚なこの地へ、多くの人が登っています。

 福山市の鞆の鯛網は、今でも有名ですが、瀬戸三区からも、大勢の網子(網を引く人)を連れて出漁していました。その時には、四丁櫓や八丁櫓で幟りを立てて船団を組み、「チョイヤ、チョイヤ」と、威勢よく船出をしていました。

 その出漁は、数か月にも及んでいたので、親子は勿論、近所の人たちまで対岸に出て、船が見えなくなるまで手を振って、しばしの別れを惜しんでいました。この鯛網に出ることを「縛り網」といい、大漁で帰った時は、「千両」取ったといって豊漁を祝い、網子には、シマ反(反物)一反(着物一人分の反物)を配っていました。

 このように、この地方では昔から、豊漁の時には、大漁を祝って、祝宴にふけっていたとも伝えられています。

※縛網は巻網の一種で江戸時代に始まったもので、魚群を巻き包んで次第に縮めて網の中に入れて取る装置で、明治以降は、もぱら瀬戸内海で鯛をとるものに使われています。)

 音戸の瀬戸に、かつて潮流が変わる現象が見られました。これを「にらみ潮」と呼んでいます。この潮は、瀬戸の潮が勢いよく奔流する渦潮が満ちきって、それから引く中潮の時に、約三十分位、それまで流れのはげしかった潮の勢いが、ぴたりと止まって、引きもせず流れもしない状態が続いたということです。(今は、瀬戸拡張工事を行ったため見られません)このように潮が止まることは、地元の人々や船乗りにも、また、科学的にも良く分っていません。

この「にらみ潮」は、平清盛公が、音戸の瀬戸開削の後、工事検分のために、ご座船に乗って、櫓もしわる急流に乗り出して、船を警固屋に着けようとしましたが、渦巻く潮にへさきもたじろぎ、船は少しも進まず水夫の腕も次第に弱まり、あせった清盛は、「己の切り開いた瀬戸ではないか。己の意のままにならぬとは、不都合千万」と、潮をにらみつけた所、その急流が一時、ぴたりと止まったので「にらみ潮」と伝えられています。

 御所の浦から東へ百メートル余り行った所の沖側に、「子泣き岩」があります。

 そのすぐ傍に古びた「ふじつぼ」がくっついた円形をした、コンクリート製の「潮はかり」が、いかにも印象的に存在していて、それがいわゆる「泊」です。

 その由来は古く、永万元年(一一六五年)に、音戸の瀬戸を開削した平清盛が、厳島神社に参詣する際に、瀬戸の流れがいかにもひどく航行不能なために、この地点で、船を停めて潮待ちをしていたことから、「泊」という名が付けられたといわれています。

 それ以後は、瀬戸の潮の流れが逆流している時には、どの船も潮待ちをしていましたが、現在では、瀬戸の拡張工事が行われたため、流れもゆるやかになり、その面影はみられません。

 また、おもしろいことに、その子泣き岩に、小さな足跡が見られるのが、それが何と不思議なことに、清盛の子の足跡とも伝えられています。

 藤脇の西のはずれに、岩でできた小さな岬があります。そこに花崗岩で造られた祠があり、村人はこれを「若宮さん」と呼んでいます。

 若宮とは、安徳天皇の幼少の頃の呼び名です。

 時代は平安の末期、安徳天皇は高倉天皇の第一皇子といてご誕生され、幼くして天皇の位につかれました。

 ちょうどこの頃、源氏と平氏の戦いが行なわれていて、平氏は屋島の戦いに敗れ、壇ノ浦に下って戦いに挑むことになりました。その途中、平氏一族は今の大柿町の王泊に立ち寄り、この地に行在所(天皇の行幸のときに旅先に設けた仮宮)を設けました

 幼い天皇は、長い船旅でたいそうお疲れになられました。その姿を見兼ねたお供の者が対岸の白砂青松の地、藤脇にお連れして、天皇をお慰めしました。

 幼少の天皇にとって、どこまでも続く白い砂浜、岬の奇岩に寄せる漣、西の海を朱に染めて沈んでいく夕日、どれもこれも心を奪われるものばかりであり、中でも岬の松の小枝を吹きぬけるここちよい潮風は、ことのほかお気に召されました。

 楽しい一日を過ごされた天皇は王泊に帰られました。しばらくして、旅の疲れのとれた平氏一族は壇ノ浦へと船を走らせ最後の合戦に挑みました。

 闘いは一進一退。ところが源氏の大将義経の策により、平氏は壊滅状態となりました。

 それを察した乳母二位の尼は、これを最後と幼少の安徳天皇を抱きかかえ、海に身を投じました。

 この悲報は、藤脇住民にもたらされ、悲運の幼い天皇を偲び石塔を建てて供養しました。

 時代は下って江戸時代、天保十三年に祠を建立し、安徳天皇をお祭りしました。

 今も、若宮さんに航海安全、家内安全の祈願をする人が絶えません。

 音戸大橋架橋の音戸側のたもとの、小高い丘というよりは、小高い所といった方がよく似合うような場所が「城山」です。

 ここは、平氏が行った瀬戸の開削工事(長寛二年~永万元年)の時に、普請奉行であった平頼盛が作業を進める「指揮所」に定めた所といわれています。また、その後には、安徳天皇が能美島大君に行在所をおかれた時の見張所にもなっていたと伝えられています。

 今では、その様子を伺うことはできませんが、当時としては、遠くを見渡す絶好の場所でありました。

 

 田原の海岸の入り江に「トンド岩」別名「ほうしの岩」と呼ばれる富士山によく似た大きな岩があります。この岩の中腹より上は、海水に洗われたことがなく、大昔から日本に大ごとがない限り、決して海水に隠れることはないといい伝えられていました。お年寄りの話では、今から百年程前の芸予大地震のおこる前の夕方に、不思議とこのトンド岩のその殆どが海水に隠れてしまったということです。

 日本の敗戦前にもこういうことが現れ、ある老人は先の地震前も予告があったと話していました。いまでも地元の人たちに大切にされ、海岸の岩の辺りは埋め立てられることもありません。

 長い歴史と風化にたえて、その姿を残しています。

 田原は、櫓漕ぎや帆走船の時代から海運業の盛んな所で、それだけに人の命を奪う海難事故も次々と発生し、地元の人たちは途方に暮れていました。

 その頃、能美の大原というところの山の麓の草陰に、古朽ちた商売繁盛と海運の神様をお祀りした小さな祠が野放しにされていることを知りました。海の仕事をしている人たちは、寄り合いをもち、みんなでお金を出し合い、当時の金「五文」で譲り受けました。そして、早速鎮守の森の天神様の境内の北側に摂社としてお祀りし、熱心に安全を祈願しました。それからというものは、不思議と海難事故も少なくなり、海運も漁もとんとん拍子に繁昌していったといわれています。

 今でもこの「住吉さん」は、地元の人たちから大切に崇められています。

 高須区の御所の浦から県道を東の方に行くと「子泣岩」があります。

 この子泣岩のある磯は、昔、音戸の瀬戸を通る舟が潮待ちをするところとして都合のよいところでしたこのため、年に一度の宮島の管弦祭に舟でお参りする人々もここで潮待ちをしていたそうです。

 ある年の管弦祭に、親と二歳の女の子が舟でお参りするために、この磯で潮待ちをすることになりました。二歳の女の子は、磯に降りて遊んでいましたが、潮がだんだん満ちてきました。

 近くにあった三つの大きな岩が並んでいたのを見て、まん中の低くて上が平らになっている岩の上で、潮待ちをしていました。いつの間にか女の子が潮待ちをしていた岩は、潮でかくれてついに女の子も見えなくなったそうです。

 油断をいていた親が、このことに気づいた時はすでに遅く、悲しい参拝になりました。

 この悲しいことがあってからは、雨が降る夜は、子どもが悲しそうに泣いているようなこえがするといわれていたそうです。

 また、管弦祭の日に、二歳の女の子を連れて参ると迷い子になるといわれ、管弦祭の日には人々は、子泣岩の話でもちきりだったそうです。

 今の役場あたり※1に回漕店があり、ここには、阪神通いの蒸気汽船が発着していました。しかし、着といってもここには接岸できず、沖に停泊していて、そこまで通い船をこいでお客を運んでいました。

 この桟橋のあった所※2を「シャの鼻」と呼んでいました。その辺りには、金波館や銀波館といった芸者屋があって、今でいうにぎやかなネオン街になっていたといわれており、港町として、船泊りの船客に人気がありました。

 阪神通いの汽船を「丸一」と呼び、大きな黒船で石炭を燃料として、長い煙突から黒煙をふきあげていた光景は、現在八十才位の音戸湾内に住んでいた人達には懐かしい話です。

※1 現在のおんど観光文化会館うずしお

※2 ※1の裏あたり

 警固屋の鳥ケ平に金色の鶏がいて、時を告げていました。音戸の瀬戸開削の人夫は、この鶏の鳴き声によって、時刻を知ることが出来たといわれています。

 今日でも、元日の朝、南天の木のあたりから、鶏の鳴き声が聞こえるといわれ、「鳥ケ平」と名付けられたと伝えられています。

 今からおよそ七百年前(鎌倉時代から室町時代の初め)の仏教文化が栄えた頃、当時かなりの地位にあった人の墓としてこの「五輪塔」が建立されたものと思われます。

 南隠渡の梵潮寺の裏山には十九基も群がり建立しています。平安末期の源平合戦のときに、平家一族が戦いに敗れてこの地に逃避し、隠れ住んだといわれ、その人たちのものではないかと伝えられています。

 そんなことから南隠渡の奥の山地一帯を「隠納ふりがないんのう」と名が付けられたといわれています。

 この他では波多見の「的丘まとおか」にも十数基残っています。

 今から八百年ほど前の昔のこと。わが国が源氏と平氏に分かれての大きな戦いがあったことをご存知でしょう。近頃の運動会でも源平合戦という競技で源氏は白組、平氏は赤組で騎馬戦などで競い合いをします。「おごる平氏は久しからず」といわれるように勢いのあった平氏もやがて衰え、くりから谷、一の谷の陸の戦いで敗れ、戦いは海上に移り、追い上げる源氏は屋島で大勝し、平氏は合戦を繰り返しながら、瀬戸内海を西へ西へと逃げました。当時の瀬戸内で勢力のあった村上水軍は、平氏に味方し、傷ついたり溺れたりする平氏の兵を助け、瀬戸の島々におろして介抱してくれました。

 助けられた落ち武者は、源氏の追手を逃れるため島の海岸よりずっと奥の山合いで隠れて生活しました。隠渡というのもこれらの落武者が瀬戸を渡り隠れていた所を意味しています。

 隣りの倉橋の長谷地区は、その名のように海岸から長い長い谷間があり、その谷を奥へと入っていくと平野があります。今では、いばらやかずらがおい茂り道もなくなり、とざさえた原っぱですが、ここを安如あんじょはらといいます。なんでも、平家の美女「安如あんじょが姫」が家来と共に住まわれたといわれています。ここから海は、全く見えません。この辺りには、山のあちこちに武士が建てた墓、つまり五輪塔があり、平家の昔の面影をしのぶことができます。

 また、奥内の畑区の岡地区でも、落武者が隠れ住んでいました。ここも海岸からひと山超えた安全な場所です。追われた平家の武士の七人が暮らしたといわれる「なながまち」という所が今でも残っています。この七人の武士の中に「たいら茂右衛門もえもん」という人物がおり、それからおよそ三百年ほど後の子孫に「又次郎」がおりました。

 この又次郎のお話は後程の民話「又次郎と夢想の榎」に引き継がれていきます。

 ある日のこと、沖合いに漁に出ようとして舟の錨をあげておりましたら、その錨綱いかりづな一貫目いっかんめ(三・七五キログラム)あまりの大だこがくっついていました。

 要次郎さんは、しきりにその綱をふっているので、陸から様子を見ていた人が、「要次郎、どうしたんかい。」と聞くと、「一貫目だこが、錨についております。」と言って、尚も綱をふっておりました。それでも逃げないので、今度は、竹を持って、「われは逃げい、逃げい」とつついたので、たこは仕方なく双見の方へ逃げてしまいました。

 その時、陸で見ていた人が「何故、たこを取らぬのか。」と尋ねると、要次郎さんは「私の取り前のもんじゃござんせん。それは、漁り(魚や貝をとること)をするのが目的じゃござんせん。私は網を引くんじゃから網の中に入ったものは私の食べ物として与えられるものです。」と答えました。

 そこで、見ていた人が「要次郎さん。今日は、どこへ漁に行くんかい。」と尋ねると、「今日は双見の方へ出ようと思いましたが、たこが双見の方へ逃げたけん。」と言って、反対の方向の音戸の瀬戸を越えて渡子の方へ出たということです。

 要次郎さんは、網を引くのと、漁りをするのは別の考えであったのか、ご法義ほうぎな心に人々は心を打たれたということです。

 また、要次郎さんは、人から物品をもらうと必ずお礼にと、自分の取った魚を持って行きました。人の好意に対しては衷心これに感謝して、人のものをただでもらっては済まぬという考えが多分にあり、ご功徳こうとくを持たれた人だったとされています。

 翁の回想録を偲んで、郡内のお寺参りをされるお年寄りの人達の間からも「世にも不思議な有難い人がおられたよのう!」と、言う声を耳にすることがしばしばあります。

 中世の頃に、竹原の小早川氏と矢野の野間氏が波多見島をめぐって争った時に、城山と赤寺山が戦場となり、多くの兵士の血が流されたと伝えられています。

 そのために、この二つの山肌が、その血で赤く染まり、その辺りの土が赤くなったといわれています。特に、日附トンネルのある赤寺山一帯の赤い山肌は、その名のように、赤土の地層が通っているといわれています。

 二十九才の若さで安芸守あきのかみに任ぜられた清盛は、しだいに頭角を表しました。音戸の瀬戸を開削した当時は、兵庫守として任命され、日宋貿易発展のために、兵庫の築港、瀬戸内海の海上交通の整備等を行うとともに、さらには、厳島神社の造営改修など数々の偉業を成し遂げました。しかしながら、この激務がたたってついに病に倒れました。

 その時が、養和元年(一一八一年)二月四日のことであり、六十四才であったと伝えられています。

 倒れた時が高熱であったことから、世の人々は、音戸の瀬戸開削の際、西山に沈まんとする夕日を招き返したので、その厄災から高熱になったといわれたものらしく、それを『熱病』と伝えられているようです。

 川柳に『清盛の医者は裸で脈をとり』

  船頭可哀いや 音戸の瀬戸で

   一丈五尺の 櫓がしわる

 この唄は、町の無形文化財として清盛祭とともに指定され、歌い続けられるよう多くの人たちがその伝承に努めています。今では、日本三大舟唄、つまり淀川三十石舟唄、最上川舟唄とともに広く歌われています。また、労働舟唄としても「貝殻節」などとともに広く知られています。

 この唄はその昔、音戸の瀬戸で漁をする人が、小さな舟をあやつりながら櫓こぎの厳しさの中で、瀬戸の流れに合わせて歌ったものと伝えられています。作詞作曲は不明ですが、どこかに悲哀がこめられています。

 最近、この唄を後世まで伝承するために「音戸の舟唄保存会」が設立されました。

 

音戸の民話

 むかーし昔、国中のあちこちで、毎日のように雨が降り続いたり、日照りが続いたりしてのう、作物はほとんど実らず、貧乏な者は米も買えず、植えて死ぬ人がようけおったんじゃそうな。これを天保の大飢饉というたげな。食物に困った人たちが集まって一揆や打ちこわしをおこし、世の中は乱れに乱れたそうな。藤脇の村の人たちも食物がのうて、草の根を食べたり、食べられる物はなんでも食べたそうな。

 村の長である六助は、この悲惨な村人の姿を目の前にして「どうにかせにゃあいけん、どうにかせにゃあいけん。」と、毎日毎日悩みつづけておったげな。

 そんなある夜のこと、夢に白髪の老人が現われて、「六助や、村人がこんなに飢餓で苦しんでいるのは、お前たちが若宮さんを粗末にしているからじゃ。石塔はくずれ、荒れほうだい。お参りする人さえおらん。それで罰があたっているのじゃ。祠を建てて若宮さんをお祭りしてやるんがええ。そしたらお前の願いもかなえられよう。」そう言い終わると、老人は消えたそうじゃ。

 つぎの朝、六助が石塔の建っている岬へ行ってみると、老人のことばどおり、石塔はたおれ、みるかげもないありさまじゃった。六助はさっそく村人を集め、昨夜、夢のなかにでてきた老人の言葉を話して聞かせたんじゃ。六助の話を聞いた村人は、「老人の言うとおりかもしれん。わしらが若宮さんを粗末にしちょったけん罰があたったんよ。さっそく若宮さんをお祭りする祠を建てちゃどうかのう。」そうじゃ、そうじゃ。という村人がしだいにふえ、祠づくりに取りくむことになったそうじゃ。

 そうして天保十三年六月、小さな祠ができあがり、その横側に、「天保十三年建之。奉寄進。寅六月」ときざみ、祠ができたのを祝ってにぎやかに祭りをしたので、みんなは活き活きと暮らすようになったそうじゃ。

 今でも秋にはお祭りが行われ、狭い境内にはお参りの列がつづき、賑わっているそうな。

 むかし情島というはなれ島に、治作という若者が住んでおったげな。治作は身体が大きく、たいへんな力持ちで、そのうえなかなかの男前じゃったそうな。

 ある夏、治作は、向かいにある波多見の盆踊りに行ったげな。ここの踊りは、夕暮れから明け方までつづき、遠くから漁師さんやお百姓さんたちが訪れ、それはそれはにぎやかじゃったそうな。そんなある日、太鼓の響きに合わせて踊り明かす人の群れの中に、治作はこれまで会ったこともないような美しい娘さんをみつけたそうな。「この人は何んとべっぴんじゃのう。」ひと目ぼれした治作は、人波をかき分けて娘のところへ近寄って行ったげな。「わしゃあ情島の治作というもんじゃがの、お前様の名前は。」と、ぶっきらぼうな治作の問いにびっくりした娘は、警戒ぎみなけげんな顔をしてだまっていたそうな。しかし、澄んだ瞳と素朴な人柄にしだいに心をひらいてきたのか、「わたしは浦と申します。」と恥ずかしそうに答えるお浦は、波多見の村でいちばんの器量よし、それに大変気立てのええ、やさしい娘じゃったそうな。

 すっかり気の合った二人は、それいらい毎日のように人目を忍んで逢う瀬を楽しんだそうな。せまい島のこと、二人のうわさはパッと広まり、波多見の若い衆たちは内心ねたんでいたそうな。「治作をこらしめてやろうやあ!。」おもしろ半分で数人の若い衆がある夜二人をとり囲み「わりゃあ情島へいねぇ!いなんにゃ殺しちゃるぞ!。」とすごいけんまくで殴りかかった。あまりの気迫に驚いた治作は、ひっしで逃げるが、気の高ぶった若衆たちは必死で追いかけたんじゃ。とうとう岬のてっぺんに追いつめられた治作は、不幸にも足をすべらせて絶壁から海へ落ちてしまったそうな。

 翌朝、治作の屍が浜辺に打ち寄せられたと伝え聞いたお浦の悲しみは深く、その夜、治作の落ちた岬から身を投げて死んでしまったそうな。

 あまりにもむごい出来事に波多見村の人たちは驚き、後悔し、はかない二人の身の上を惜しんで岬の上に祠を建て例をとむらったそうな。

 その後、この悲劇の岬は「お浦の鼻」と呼ばれるようになり、治作とお浦の祭られた祠には波多見の人たちの参拝が絶えなかったそうな。

 むかし、音戸の瀬戸は、潮がひくと、船が通ることができなんだが、平清盛公が瀬戸を切り開いて船が通れるようにしたそうな。

 その恩にむくいるために、村人たちは、瀬戸の潮の渦まく景色のすばらしい海中に清盛塚を建てたんじゃげな。

 この塚には、清盛さんへの供養のために石の塔を建て、そこへ松の木を植えたそうな。

 松の緑はあざやかで、枝は水面までたれさがり、波や風にも負けないで、三百年もの長い間生きぬき、それを眺める人に、生きる勇気とやさしい心を教えてくれたそうな。

 この松は「清盛松」と呼ばれ、みんなから親しまれたそうな。いつの頃からそう呼ばれるようになったのかは定かじゃないが、不思議なことに、この松の葉が枯れはじめると、だれ言うことなく、「ありゃあのう、たこのゆがき汁をかけりゃあ元気になるんよお。」といわれてきた。その言葉どおり、松の葉が枯れはじめると、たこのゆがき汁をかけてきたんじゃ。すると元通りに青々とした緑の葉になったそうな。

 こんなことが何百年もくりかえされてきたそうじゃが、環境が変わってきたからか、とうとう松食い虫にやられて枯れてしもうたそうな。「なんとも残念なことじゃのう。」と人々は口々に言っているそうな。

 それにもうひとつ不思議な話があっての、歯痛の人が、この松の葉をかじると、不思議なことに痛みが治るという事じゃ。

 この松には、まだまだいろんな言い伝えがあったというが、よそじゃ聞かん話よの。

 むかーし昔、畑の岡に又次郎という若者が住んじょったそうな。その又次郎が十八歳のとき、野良仕事で疲れてぐっすり寝こんじょったら、「又次郎ヤイ。又次郎ヤイ。」と何者かに呼ばれたような気がしてふと目をさましたら、白く長い髭をはやした仙人のようなおじいさんが立っちょったんじゃ。そのおじいさんが言うにゃあ、「メソウの鼻に行くがええ。榎が一文銭かずいて双葉を出しちょる。その一文銭を持って宮島でとみくじを買うがええ。」と言うたげな。「一文銭を頭にのせて榎が芽を出しちょるけん、宮島さんでとみくじを買うてこい言うんじゃ。」一人夢見ごこちでつぶやいていた又次郎は、ふと我に返り、「さっきの仙人はどこじゃあー。」とキョロキョロあたりを見まわしたが、どこにも仙人の姿は見あたらなかったそうな。「もうじっとしておれん。」又次郎は夜が明けるのも待ちきれず、うす明かりの中を浜の方へとんでいったんじゃ。だが仙人の姿はどこにも見えず、がっかりとうなだれてしもうたそうな。

 その頃のメソウの鼻は汐が打ち寄せて葦がしげり、とても淋しいところじゃった。それにもまして、山賊がでて人をおそうので、とても人が住めるようなところはなかったそうな。

 気がぬけたようにふらふらっと立ちあがった又次郎は、昼を知らせる鐘の音を聞きながら、「仙人のお告げはゆめじゃったんか。」と思いながら、ふと足元を見ると、な、なんと一文銭を頭にのっけた双葉の榎があったんじゃと。

 又次郎はこおどりして、そーっと双葉から一文銭をぬきとり、腹がへっているのも忘れて一文銭をしっかりにぎりしめながら、スタコラスタコラ宮島さんめざして歩いて行ったそうな。

 宮島に着いた又次郎は、さっそく一本のとみくじを買うた。ところが、それが大当たり。勢いづいてその賞金でまた全部とみくじを買うと、また大当たり。又次郎はすっかり大金持ちになったんじゃと。そんなことがあって、この木は、「又次郎夢想の榎」と言われるようになり、「御神木」とも言われるようになったんじゃと。それから又次郎は岡からおり、浜の榎の近くに住むようになったそうな。

 御神木は、たび重なる台風にも負けず、しっかりと大地に根をおろし、大きく大きく枝葉を伸ばし、それはそれは立派な大木になったんじゃとうや。夏は村の人たちが休む涼しい木陰になり、小鳥たちの休み所にもなったり、出征する兵隊さんたちを送る船着場にもなり、村の歴史をずっと見つづけてきたそうな。ところが、ある日突然倒れてしもうた。忘れもしない昭和六十二年七月十四日のことじゃった。昨日からしとしと降り続いた雨の重みにも耐えかねてか、ドシーンという大きな音と共に倒れたんじゃ戸。地元の人たちは驚いたのなんの、まさかあんな大木が倒れるとは・・・・・・。夢にも思わん出来事に皆んなたまげての、そりゃあ大変じゃったそうな。なんせ子ども三人で手をつないでやっととどくほどの大きさじゃったんじゃげな。

 ところで、こんな話もあるんよ。戦後(第二次世界大戦後)、この木の下へ道路を造ることになっての、この榎の太い枝を切らにゃあならんことになったんじゃが、この木を切るとたたりがあるという言い伝えがあるので、だれも切る者がおらんかったんよ。そこへ一人の若者がきて、「たたりなんかあるもんかい。わしが切っちゃるわい。」そう言って切ったんよ。へたらのう、その晩から腹がにがりだしての、とうとうもがき苦しんで大さわぎになったそうな。それからというものは、この榎を「御神木」というようになったんじゃげな。

 むかし昔、今から千四百年くらい前のこと、えらいえらい弘法大師というお坊さんが旅の途中、渡子に立ち寄っての、お休みになられたそうな。村人たちは大喜びで大師を迎え、いろんな話を聞いたり、村のことをお話ししたり、それはそれは楽しいひとときじゃったそうな。そんななか、村人の貧しい暮らしぶりをまのあたりにした大師は、「今より少しでもよい暮らしにしてあげたい。」とお考えになられ、村人から聞いた山ももに目をつけられ、「この地の名産にしてはどうか。」と言われたそうな。

 山ももは、暖かい島の土地でよく育ち、美味しい実をつけることから村の人たちはさっそく山や家のまわりに植えたそうな。すくすく育った山ももは、梅雨どきになると紫色の実を付け、町の市場で売られ、村の人々の暮らしの大きな支えになったそうな。

 それから毎年のように山ももの収穫どきになると、だれ言うことなく、「大師のご遺徳にむくいるため、お祀りをしてはどうだろうか。」という話が広がり、渡子の小高い丘に社を建てて、大師をたたえたそうな。

 渡子では今でも「お大師まつり」が桜の花が咲く頃、にぎやかに催されているそうな。

(※山ももは「音戸町の町木」として、今でも大切にされています。)

 むかし、渡子島では、それはそれは怖くておもしろい習慣があったげな。

 若い衆(青年)になると、寄り合いをもっての、肝だめしの会を開いたんじゃげな。寄り合いの小屋から真夜中に一本の杭をもっての、一人で奥山の昼間でもうす暗く怖い火葬場のかまどの前に、木槌で杭を打ち立ててくるんじゃそうな。あるとき、自分のじゅんばんがきた若者が、恐る恐る杭をもって出ていったそうな。ところが、なんぼたっても帰ってこんので、皆んなが探しにいったら、どうしたのか若者は火葬場の前で倒れ、気を失っちょったと。驚いた若者たちは、皆んなで躰をたたいたり、水をかけたり、大声で名前を呼んだりしよったら、やっと気をとりもどし、「お化けが!お化けが着物のすそを引張りょうる。助けてくれ!助けてくれ!」と、声をかぎりに助けを求めたそうな。皆んなは恐る恐る近づき、よくよく見ると、若者は怖さの余り急いだためか、着物の後のすそのはしに、杭を打ちつけ、お化けに引っ張られたと勘ちがいしちょったそうな。

 

 そりゃあそりゃあ古い話じゃがの、毘沙門山に大きな天狗が住んじょったんじゃげな。

 その天狗はの、不思議にも、自分の長い足を伸ばし、島から島へ、陸から陸へ、どこへでも自由自在に行くことができたんじゃそうな。

 あるとき天狗は、早瀬の毘沙門山の頂上の大きな岩の上から早瀬の瀬戸をまたいで、能美島の能戸呂山へ右足をかけたらの、そのとき天狗の股の間からなにか小さい物が落ちたんじゃげな。その落とし物とは、大君村の沖合いに浮かぶ敷島じゃったんじゃと。

 つぎに天狗は左足を伸ばして、廿日市の冠山へ足をかけたんじゃと。するとまた股の間から、今度は少し大きな物を落としたんじゃと。この落とし物は、な、なんと宮島じゃったそうな。

 今でも毘沙門山の頂上の大きな平たい岩の上に、天狗の黒い大きな足跡が残っちょるそうな。

 むかし、渡子島村に、村人から大変信頼されていた人柄のやさしい善作というおじいさんがおったんじゃそうな。善作がある日山道を歩きょうたら、大きな松の木の下で、まっ青な顔をしてうずくまっている若者に出逢ったんじゃと。善作じいさんは急いでそばにかけ寄って、「どうしたんかいの。」と尋ねたら、やおら顔をもちあげた若者は、「実はのう、悩みごとがいろいろあって、この世がいやになり、首つり自殺をしようと思うて、なんべんもなんべんもやったんじゃが、思うように死ぬことができんで、このようなありさまなんよ。」

 それを聞いた善作じいさんはびっくりして、「あんたあ、なにを考えちょるんな。人間はなんぼ悩みや苦しみがあっても、絶対に死んじゃあいけん。せっかく仏様から授かったかけがえのない大事な命じゃが。思いなおして馬鹿げたこたあ止めんさい。」と言い聞かせたそうな。しかし若者は「生きちょってもしょうがないんじゃあ、じゃまをせんで早ようしなせてくんない。」と言いはったんじゃと。善作じいさんは面白半分に、「ほうかい、へじゃあ首吊りの方法を教えちゃろうかあ。」と言うやいなや、若者の前で松の枝に綱を張り直して首を掛けてとび降りたげな。いったいこりゃあどうしたことかいの。若者は、とっさの出来事であっけにとられて何もすることができず、うおうさおうする間に善作じいさんは動かなくなってしもうたそうな。

 がっくりと首をうなだれ、舌をたらして死んでいるじいさんを見て、若者は急いで綱を切り落とし、善作じいさんにとりすがって「あーん、あーん。」と激しく泣きくずれたそうな。それからというもの、若者は、おじいさんの供養をし続けたそうな。

 この出来事以来、若者はおじいさんの言葉を思いだし、苦しみや悩みごとをのりこえて、一生懸命働き、村人の手本となるような人になったそうな。

 おじいさんの冗談半分にやった思わぬ出来事が、若者に生きる力を教えてくれたんじゃそうな。

 

 古い昔の話じゃがの、渡子の村に、それはそれは働き者の若い漁師さんがおったんじゃげな。

 ある日のこと、沖で漁をしよったら、音戸の人があっぷあっぷしておぼれよったそうな。それを見つけた漁師さんは、すぐに錨をあげて助け、自分の着ていた服を着せ自分の家まで連れてかえり、あたたかく手当てをしてあげたんじゃと。その家には妹さんがおっての、それはそれは大変気たてのええ、やさしい娘さんじゃったそうな。若者は娘さんの温かい人柄に心をうたれ、そのことが縁で二人は思い思われる仲になっての、それからというものは、人目をしのんで渡子峠で逢う瀬を楽しんだんじゃと。この峠は、この島ではもっとも高い所にあっての、瀬戸の島々や、潮の流れをながめながら、互いの愛をたしかめ合い、夫婦になることを誓い合ったそうな。

 その思い出にと、逢いびきをしていた石のそばに、男松(黒松)女松(赤松)一本ずつを記念に植えたそうな。二人が植えた記念の松は、二人の心にそうように、すくすく育ったそうな。ところが、不思議なことに、二本の松はぴったりとくっついて一本の松になり、天をつくほどの大木になったそうな。そのころの峠は、音戸と渡子を結ぶ主な道での、人の行き来は多く、通る人々の中から、誰言うともなく、「渡子峠の夫婦松」と呼ばれるようになったんじゃげな。

 その後、音戸の民謡として歌われての、惜しくも枯れた夫婦松は、その名残りを惜しみ、幹を玄関の鴨居にしたり、その根っこの部分を机にした家が渡子にあるそうな。

 それはそれは昔のことじゃった。安徳天皇が能美にお立寄りになられたときのことじゃあ。あまりにも能美が居心地がよいので、すっかり気にいられて、とうとう仮御殿をお造りになられたそうじゃ。なにしろ大勢のお供をお連れのことなので、先ずは飲み水にお困りになったということじゃ。それで、どこかええ水はないものかと探しまわったところ、対岸の早瀬にあると言うことを聞いたお使いの者が、さっそく水を汲みにきたそうな。

 岩の間から湧き出る泉は、それはそれは冷とうてきれいでおいしいので、天皇もきっとお気に召して下さると思ったそうじゃあ。さっそくその水をつぼにいっぱい汲みあげて天皇にさしあげたところ、それを飲まれた天皇は「これは、これは、珍しくおいしい水じゃ。つかれがいっぺんにとれたぞよ・・・。これを飲んだ者は長生きをするぞ。こんないい水がここらにあったのか。」と召使いにおっしゃられたと。しかも不思議や不思議、お肌がだんだんときれいになったそうな。

 その話を聞いた早瀬のお年寄りたちは「わしもその水を飲んで長生きしょうわい。」と言って、われもわれもと先を争いながら、手に桶をもって集まってきたげなや。何しろ岩の間から湧き出る水のこと、そんなにようけいの人が汲みあげるのに間にあわず、一日中待っとった人もおったげな。

 この話が村中に知れわたり、村人たちは、われもわれもと水を汲みに行くようになったそうな。それからというものは、この湧き水を「殿様水」とか、「延命の水」と呼ぶようになったげな。このことを知った村いちばんのぶきりょうな娘をもったお母さんは、是非一度試してみとうて、大きな桶を片手に水汲みにやってきたんじゃと。水を汲みながら「どうか娘がきれいになりますように。」と天にも祈る気持ちであったそうな。村の人たちも、娘を思う親心にほだされながら、一緒に手伝ったそうな。

 それからというものは、毎日毎日朝に夕に水を汲みにきたそうな。すると不思議なことに、娘はだんだんと肌が美しゅうなり、色も白くなって村中の若者たちが憧れるようになったんじゃげな。

 この話が広く知れわたり、娘をもつ親たちが、人目を忍んで水汲みにやってきたそうな。そんなことから、早瀬には美人が多くなったんじゃと。

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 「沖の方まで泳ぐんじゃあなあど。一人で泳ぎに行くんじゃあなあど。猿猴に引きこまれて肛門を取られるど。」小さいころ、これがおかんの口ぐせじゃった。

 猿猴は猿に似た妖怪で、手が長うて、遠いところからでも、その長い手を伸ばして、子どもを海の中へ引っぱりこんで、肛門を取って喰うそうな。猿猴の好物は、どうやら子どものやわらかい肛門らしゅうて、それでいろいろな奇策をつかうと言われとった。子どもが夕方おそうまで泳いどると、その周りを虹のような美しい海にしての、子どもが近づくと虹はだんだん沖の方へ遠ざかっていくんじゃそうな。子どもがその美しい虹に魅せられて沖の方へ行くと、急に長い手を伸ばし、あっという間に海の中へ引っぱりこんでしまうんじゃ。

 猿猴が肛門を取るという話はこうして生まれたそうな。じゃが、土用の丑の日だけは、猿猴が出てこんので、子どもらは、安心して泳げたそうな。この日はお百姓さんが、牛を海に連れて行って、躰を洗うてやったり、泳がせたりするんで、海は大いに賑わったそうな。猿猴は牛が大の苦手なんじゃと。

 今はたくさん家が建てられ、昔の面影はまったくみられんようになったが、昔は藤脇と先奥の間には、淋しい淋しい峠があったそうな。夜になると、キツネやタヌキが出てきて、人を化かすと恐れられちょったそうじゃあ。

 ある日、藤脇に住んどった彦市が、波多見の親戚の法事に行ったときのことよ。ご法話のあと、ご馳走が出されての、集った者らで、互いにさしつさされつ酒をくみ交わして、彦市もだいぶ酔うてきとった。秋の日は短く、いつの間にか太陽は西の山の端にかかり、あたりはうす暗うなっとった。

 彦市は、「おっちゃん、おばはん、ご馳走になったの、おおきに。」と言って立ちかけると、「彦市や、もうすぐ日が暮れるけえ、今夜は泊まっていけえや。途中で暗ろうなったら危ないけえ。」とおっちゃんがすすめるのを制して、「なあに、大丈夫よ。なにが出ようが、わしゃあ恐ろしゅうはないけぇ。」と、ポンと胸をたたきながら家を出たそうな。家を出かけにおっちゃんは何度も何度も「彦市や、へじゃあ気いつけよ。」と言いながら家の中へ入って行ったんじゃ。

 彦市が山道にさしかかると、日はとっぷりと暮れ、あたりは暗うなっとった。森の中に細い道が一本かすかに見えるだけじゃ。しばらく行くと、彦市の後ろに誰かついてくるような気配がしたんで、恐ろしゅうなって足を速うすると、後ろの足音も速うなる。立ち止まって振り向いてみたが誰もおらん。「今なあ気のせいじゃったんかあ。」と胸をなでおろした彦市は、やがて山の頂きに出た。見上げると、空には無数の星がきらきら輝き、前方には遠く漁火の灯じゃろうか、それとも民家の灯じゃろうか、ほっとした気分になった彦市は、足を速めたんじゃ。

 坂道を下るんは速い。いつの間にか畑にさしかかる。ここから先奥までは、平坦な道が続く。「やれやれ、これで半分もどったのう。」とつぶやきながら歩き続けたんじゃと。冷たい夜風が吹きぬけて、思わず身ぶるいするようなんじゃが、まるい月が中空に昇り、あたりを照らしているんで歩きやすかった。「やれやれ、もうひとつ峠を越えりゃあ藤脇かあ。」彦市は思わず呟いた。

 先奥峠にさしかかると、村の灯が見えてきた。と、そのとき、「彦市さあん。彦市さあん。」と女の人の呼ぶ声がする。「はて、こんな夜中に、こんな淋しい所で誰じゃろうか・・・。」そう思いながら歩きはじめると、「彦市さん。彦市さん。」と再び呼ぶ声がする。振り向くと美しい女の人が提灯をさげて立っちょるんじゃ。今まで見たこともないような美しい女じゃった。「彦市さん、私の家はすぐそこです。少し休んでいきませんか。」女の人の指さす方を見ると、そこは立派な家が建っちょった。「待てよ、こんな所にこんな立派な家があったんかいの?。」不思議に思いながらも彦市は女の人について行ったんじゃ。御殿のような立派な家であっての、お膳の上には山海の珍味が並んどった。こんなご馳走を見るのもはじめてじゃった。「どうぞゆっくり召し上がって下さい。」うながされるままに彦市は、遠慮もせずパクパク食うた。食べ終わった彦市に女の人は「お疲れでしょうから、ひと風呂浴びたらいかがですか。」と言うんで、言われるままに着物を脱いで風呂に入ったんじゃ。いい湯加減じゃった。「いい湯だなハハン、 いい湯だな・・・・・・。」鼻歌まじりで歌っているうちに、あまりの心ちよさに、つい眠りこんでしもうた。

 朝になり、まわりで人の笑い声がする。「あのおっちゃん野つぼに入っちょらあ。おかしいのう。」子どもらが野つぼの周りで笑いこけとる。その声に目をさました彦市は、野つぼからとび出し、「だまされたかあ。あの女はキツネじゃったんかあ。」と、一人呟きながら、恥ずかしさと、くやしさから急いで帰っていったそうな。何ともおかしな話しようのう。

 その昔、渡子島の村はずれの丘の上に、小さなお堂があったんじゃそうな。そのお堂のすぐ背戸は竹藪が生い茂り、急な谷間で水がちょろちょろとながれよったそうじゃ。お堂には年老いた一人の和尚さんがお守りをしょうったんじゃと。谷間ぞいには細い坂道があっての、村人が夜更けにそこを通ると、「ギャギャ。」とも聞こえる不思議なイガリ声が聞こえるんじゃそうな。へじゃけえ村の人は気持ち悪がって、できるだけそこを通らんかったそうな。

 ある朝、お説教が済んだあと、村の人が、この出来事を和尚さんに打明けたんじゃそうな。へたらのう、和尚さんはしばらく腕組みをして首をかしげながら、しきりに考えこんじょったと。それからというもの、和尚さんは、毎日毎日亡くなった人たちの供養にと、長いお経をあげ、仏様にお祈りをし続けたんじゃそうな。

 さて、それからどれほどの日がたったんじゃろうか、あるとき、雷の鳴る大雨の中、まっ暗いお寺の谷間で、あばら骨がむき出、痩せ細った骸骨そのもののような裸の人々が、大勢で何かを喰いあさり、金切声をあげよったそうな。これは、お寺の人が食べ残した飯粒が、谷間に流れ出したのを、われ先にと競って拾うていたときの声じゃったんじゃそうな。

 ところが、食べ物に餓えたその者どもが、拾おうとして手を出すと、たちまち真っ赤な炎となって燃えあがり、そのため大きなイガリ声をあげようったんじゃそうな。そのイガリ声で目を覚ました和尚さんじゃったが、実は、夢じゃったんじゃと。そんな夢を見たあと、和尚さんはなぜか気になり、ああでもない、こうでもないと、いろいろ考えこんどったが、はた、とあることに気づいたそうな。それは、「亡くなった人が生きとるとき、植物や動物が大事な命を捧げてくれたたまものであり、それで人間は生かされてきておるにもかかわらず。食べ物を残したり、捨てたりして感謝もせんで、わがままな人間の罪の報いで餓鬼道に墜ち、苦しみもがいちょる姿じゃ。」と思わずにはおれんかったそうな。

 和尚さんは、それからも、毎日毎日お経を唱え続け、供養のお祈りをしたんじゃと。

 ご法話の中でも、ものの命を大切にし、感謝の日々を過ごすよう村人に話し、語りかけたそうな。

 それから長い月日がながれ、次第に谷間からは餓鬼の声も聞こえんようになり、消えていったそうな。

 昔、田原の村の北よりの海辺に「お夏岩」と呼ばれとった岩があったんじゃそうな。お夏さんは大変気の強い女で、主人が長い病で寝こんどったんで、か弱い女の細うででありながら舟を漕ぎ、毎日毎日海に網をいれて漁をしよったんじゃが、思うように魚が獲れんで、主人の薬代も払えんような状態で困り果てておったそうな。

 ところがある朝、網を入れようとすると、近くの岩に、それはそれは大きなタコが抱きついちょったんじゃそうな。お夏さんは、さっそく金突きでタコの頭をめがけて刺しこみ、舟に引き寄せとって、包丁で足を一本だけ切りとったそうな。その足を家に持ち帰ったんじゃが、なにしろ大ダコじゃったもんで、たくさんのお金になったそうな。そのお金で薬代を払うたり、食べ物を買うたりすることができたけえ大喜びしたそうな。お夏さんは、翌くる日も、また翌くる日も同じ場所に行って一本ずつ切っては持ち帰ったそうな。こういうことが七日間も続いたのにタコは逃げもせずその岩におったげな。ところが八日目のこと、最後の足を切ろうとすると、大ダコは振りあげたお夏さんの腕を、残った一本の足で激しく巻きつけ、そのまま海中深くお夏さんを引きずり込んでしもうたそうな。

 数日ののち、二本の腕を噛み落とされたお夏さんの死体が浮いとったそうな。それを聞いた村の人たちは、「お夏さんは、タコに復しゅうされたんじゃげな。一、二本で止めちょきゃあえかったのに・・・。」と口々に言い合っていたそうな。

 それからというもの、毎晩このあたりの海辺では、女の悲しそうな泣き声が聞こえたということじゃ。お夏さんの泣き声じゃろうか・・・。

 畑村の端に赤崎の鼻という所があっての、ここはその名のとおり、ちょこんと突きだした岬になっとって、そのまわりは白い砂浜に囲まれた、それはそれは広くてきれいな所じゃった。岬のはしっこには禿山があっての、その頂上のあたりに、ふるーい大きな松の木が一本生えとったそうな。

 根っこは雨や風にされされて、土の上に出ており、幹が大きいのに背丈が低うて、伸びた枝の先は、強風で枯れたり、折れまがったりして、いかにも厳しい環境を長年生きぬいてきたという感じじゃった。

 さて、この松には、昔から、こんな言い伝えが残っとるんじゃそうな。夜になると、天狗がでてきての、火の玉になり、近くの山の峰や大木をとびまわり、ときには人をおそうというんじゃ。なみはずれた大きさだけに、人々は畏れ敬ったもんじゃそうな。こりゃあの、子どもらが、夕方おそうまで遊びよるのをいましめた親心とも言われとるんじゃそうな。じゃけぇ赤崎の一本松には天狗が住むという言い伝えが、親から子へ、子から孫へと語りつがれてきたんじゃそうな。

 そんな言い伝えの残る松もいつしか枯れ、岬も整地されての、今は昔の面影ものうなった。